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旅へのお誘い
スマートフォンのゲームFGO(Fate/Grand Order)にアヴェンジャー(復讐者)として登場し、若者の人気を博すサリエリ。そのモデルは、戯曲と映画『アマデウス』に“天才に嫉妬する宮廷楽長”として描かれた作曲家アントーニオ・サリエーリ(1750-1825)です。史実のサリエーリは6歳年下のモーツァルトのライヴァルではなく、グルックの後継者として他の誰よりも高く評価され、作品の多くがすでに復活を遂げています。このたび郵船トラベルでは、筆者を同行講師にサリエーリとモーツァルトのオペラをヴェネツィアで観劇し、サリエーリ生誕の地レニャーゴと活動拠点ウィーンを訪問してシェーンブルン宮殿オランジェリーの演奏会も鑑賞する「サリエーリ・ツアー」を企画することになりました。これに先立ち当サイトに「見るサリエーリ」を連載し、サリエーリの生涯と作品をヴィジュアルに紹介していきますので乞うご期待!
サリエーリの略歴
「灰色の男」の正体
1750年8月18日、北イタリアのレニャーゴで富裕な商人の息子として生まれたアントーニオ・サリエーリ(Antonio Salieri, 1750-1825)は、ヴァイオリンとオルガンを学び、14歳で孤児になるとヴェネツィア貴族に引き取られた。宮廷作曲家ガスマンの弟子として神聖ローマ帝国の首都ウィーンに移ったのは16歳の誕生日の2カ月前。利発な少年はヨーゼフ2世に気に入られ、メタスタージオとグルックから周到な教育を施される。そして最初のオペラ《女文士たち》を19歳で作曲、《アルミーダ》(1771年)と《ヴェネツィアの市》(1772年)が大成功を収めると、1774年2月の師ガスマンの死を受け23歳の若さでウィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命された。
前年ウィーンに来て就職活動に失敗したモーツァルトはサリエーリを敵視したが、宮廷音楽と歌劇場、音楽家協会の仕事で多忙なサリエーリがザルツブルク大司教に仕える6歳年下の若者をライヴァル視した形跡はない。1778年にはミラノのスカラ座開場オペラ《見出されたエウローパ》を初演、続いてヴェネツィアで初演した《やきもち焼きの学校》の大ヒットでその名はイタリア全土に轟いた。その後グルックの後継者としてフランスに招かれ、パリ・オペラ座初演《ダナオスの娘たち》(1784年)が好評を博し、ボーマルシェ台本《タラール》(1787年)の熱狂的成功によりヨーゼフ2世からウィーン宮廷楽長に迎えられる。副楽長にはジングシュピール《坑夫》《鬼火》の作曲家ウムラウフが選ばれた。モーツァルトも《フィガロの結婚》で成功を得ていたが、キャリアに照らせばサリエーリの楽長就任は当然の措置と言える。ヨーゼフ2世の後継者レーオポルト2世もサリエーリとウムラウフを留任させ、モーツァルトによる副楽長への請願を認めなかった。
出世の道を閉ざされたモーツァルトに手を差し伸べたのがサリエーリだった。演奏会でモーツァルト作品を取り上げ、レーオポルト2世のボヘミア王戴冠を祝う《ティートの慈悲》の作曲を譲り、祝賀行事でモーツァルトのミサ曲を指揮したのだ。モーツァルトが《魔笛》に招待したサリエーリから受けた賛辞を妻コンスタンツェに書き送った最晩年の手紙も、両者の良好な関係の証左となる。サリエーリはモーツァルトの死後も宮廷楽長の職務に励むかたわら、新たに11のオペラを作曲した。1815年にフランス宮廷からレジョン・ドヌール勲章を授与され、翌年ウィーン生活50周年を祝して黄金の市民功労メダルも贈られた。シューベルトやベートーヴェンの師でもあるサリエーリは、音楽家協会の演奏会でハイドンのオラトリオ《天地創造》と《四季》、ベートーヴェンの交響曲第7番と《オリーヴ山上のキリスト》を指揮した。モーツァルト毒殺疑惑に晩節を汚されなければ、ウィーン音楽界の父と呼ばれるのにふさわしい、傑出した人物だったのである。
(『モーストリー・クラシック』産経新聞社、2018年8月号 水谷彰良氏 寄稿記事より)
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